マイクロコンピュータ時代から存在する老舗ソフトハウスであるHAL研究所の創業メンバーであり、その後任天堂の代表者にもなった岩田聡とはどんな人物なのか?プロフィールや経歴、創業した会社について調査してみました!

プロフィール
岩田聡(いわた さとる)
1959年12月6日生まれ。東京工業大学工学部情報工学科卒業。
高校自体、ヒューレット・パッカード社のプログラム電卓を知り、その魅力に取りつかれプログラムの道へ。「スタートレック」を題材に自作したゲームを友達に披露した他、ヒューレット・パッカード社の代理店に送ったこともあったそうです。ちなみに、その時はあまりの完成度の高さに驚いたヒューレット・パッカード社から大量の資料が届いたといいます。
その後大学に入ると、ホームコンピュータを購入。西部池袋本店のパソコン常設コーナーに毎週のように通い、同じくプログラミングを愛好する人物と出会ったそうです。ここでの出会いがHAL研究所のきっかけで、このときに西武池袋本店に勤めていた店員と岩田氏、そしてこのときに出会った友人がともにHAL研究所を立ち上げたとのこと。西武池袋本店の店員が設立に直接かかわり、常連だった岩田氏と友人は誘いを受ける形で創業メンバーとなったそうです。
また、1992年にはHAL研究所が多額の借金を抱え経営危機に陥り、和議を申請。岩田氏はその中で取締役開発部長から代表取締役社長へ就任しましたが、「岩田が社長をやるなら助ける」という援助者が現れたためだといわれているのだとか。それまで経営とほぼ無縁の開発者だった岩田氏は、経営者としても優れた手腕を発揮。「星のカービィ」をはじめとするヒット作品を誕生させ、15億円もの負債をわずか6年で完済。経営再建を達成したといいます。
HAL研究所について
1980年に設立されたHAL研究所は、元はパソコン関連のハードウェア・ソフトウェアを開発・販売する会社でしたが、後にパソコン関連製品事業を切り離し、家庭用ゲーム機向けソフトウェアの開発に従事。今後発売するソフトは据えてミリオンセラーを目指す」という深淵で製作された「星のカービィ 夢の泉の物語」の売り上げが見事100万本を突破し、その後も「星のカービィ」シリーズを中心に任天堂ゲームのソフト開発に取り組んでいます。
岩田聡氏の経歴
1980年 大学在学中、アルバイトとしてHAL研究所で働く
1993年 HAL研究所の代表取締役社長へ就任。6年で15億円もの負債を完済。
2000年 任天堂社長に経営手腕を買われ、任天堂に入社。取締役経営企画室長に就任。
2001年 「大乱闘スマッシュブラザーズDX」に携わり、プログラマとして最後の仕事となった。
2002年 それまで同族経営だった任天堂の代表取締役社長に就任。
2011年 発売予定のソフトに関する様々な情報を発信する「Nintendo Direct」を開始。
2013年 任天堂の米国法人CEOを兼任
2015年 胆管腫瘍により死去
プログラマ、経営者として非常に優れていた岩田氏。それまで同族経営を貫いていた任天堂で、入社からわずか2年で代表者へ抜擢されたのは異例中の異例ともいえるでしょう。世界的な任天堂のトップであり、かつ「Nintendo Direct」などの配信等メディア露出も盛んだったため、岩田氏の死は日本だけでなく世界各国で大きく取り上げられていたようです。
まとめ
ソフト開発を行ういち零細企業のプログラマから、世界的な大企業である任天堂のトップへと上り詰めた岩田聡氏。ゲーム業界へ残した功績は非常に大きいといえるでしょう。